2016-01に「一生の目標」が決定した☆

おっす!おらななし!

久しぶりに、ブログを更新するのだけど、2016-01も、すでにもう、終わろとしている今日このごろ。

そんなタイミングで、今年の目標を決める前に、「一生の目標」が決まってしまった。

一生の目標は、「ブッダになる」こと。

ありがとうございます。

目覚めた者として、生きられたら、お金持ちになるとか、いい暮らしがしたいとか、そんなものすら、超越した感じになると思うのだ。

想像にすぎないけども。

だから、おらは、ブッダになる。

それが、最終的な目標とするので、それまでの通過点は、もう、なんていうか「軽い」としか思えないんじゃない?

ブッダになること以上に、重い試練なんて、この先は無いんじゃない?

仕事が辛いとか、立場的にどうこうとか、会社がどうとか、人間関係があーだこーだとかさ。

そんなの、ブッダになろうとしている人間からしたら、ちっぽけすぎる悩みだわ。

いやぁー、なんだか、目標を立てたら、急に晴々しい気持ちでいっぱいだわ。

何にも、まだ、何にも一歩も、1mmも、ブッダへの道を進んでいないのにね。

歩みだしていないのにも関わらず、ナニか、穏やかに生きていけそうな予感がする。

これが、今年の目標でもあるのかしら。

とりあえず、今年の目標としては、もっと世俗的な目標にした方がよいのかしら。

って、悩む必要ないことで、悩むのは、悩みマニアか?

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般若心経で述べられていないことを補完するテスト

おっす!おら般若心経すきっこ。

一つ前のエントリーに続けて、また宗教の話について。

長崎ランタンフェスティバル

とつぜんだけど、おらは西遊記が好き。

この写真は、長崎ランタンフェスティバルの準備の模様を撮影した一枚。

かっちょいい西遊記の一行がうつっている。

まだ会場は準備中だったため、コレ以上近づいて撮影できなかったし、実際にランタンとしての灯りがついたところを見られなかったのは残念。

ところで、西遊記は、天竺までありがたいお経をもらいにいくフィクションだ。

しかし、この話には元ネタがある。

実在の三蔵法師が、いまでいうと、中国からインドまでの道のりを旅して、インドで仏教の勉強をして、中国に戻ってきたっていう話が、西遊記の下地になっている。

そうして持ち帰った「ありがたいお経」のうちの一つが、「般若心経」である。

◆般若心経に何が書かれているか

般若心経を解説している本を読んでみると、人が苦しむのは、「自分」という存在がいるからだ、という。

自分を捨てることで、苦しみから開放される。それが悟りを開くということ、だと。

なるほど、わかったような、わからないような。

また、綺麗とか汚いとか、生きるとか、死ぬとかは、宇宙のレベルでみたら「何も足したり増えたりしていない」のと変わらない、と。

これも、また、なるほど、わかったような、わからないような。

そして、一つの疑問がわく。

自分という存在が苦しみを生むのなら、では、なぜ自分は生まれてきたのかな?

般若心経では、ここは答えてくれていない。

◆生まれてくる理由・生きていく理由

般若心経で述べられる真理は、主観をすてて「宇宙レベル・素粒子レベルで捉えれば、辛くなくなりますよ」というおしえだ。

では、そうした心になったとして、宇宙レベルでみたら、人が生きるとか、死ぬとか、些細なことに過ぎないという主観が身についたとして、ではなぜ生きていくのですか?

生きても死んでも、悲しむ必要がないなら、生き続ける理由はないんじゃない?

いよいよ、宗教の話っぽくなってきました(自分で言う)。

般若心経で述べられているのは「悟りをみにつけ心穏やかに生きよう」というスローガン。

しかし、般若心経だけでは、仏教の教えとしては、まだ足りない。

自転車の二つの歯車の一つが、般若心経でのべられる「主観をすてて心をなくそう」であり、真理だ。

そして、もう一つの車輪は「縁起」の話がある。

これは般若心経では、述べられていない。

ここから下は、おらの「人生観の一つ」を書いておきます。

宗教的な真理ではなく、個人的な主観からでた「縁起」の話です。

◆おらが生きている理由

宇宙レベルでいえば、おらが生きていても、死んでいても、なんら変わらない。

変わらないのであれば、いますぐに死んでもよさそうだし、生まれてこなくてもよかったのっではないか、と思ってしまう。

が、しかし、そうではない。

おらは「関係をもつため」に生まれてきて、いまも生きているのだと、確信している。

違う言葉でいうなら「自分以外のものに影響をあたえ」また「自分以外のものから影響を受ける」ために、生まれてきて、そして生き続けるのだ。

おらは毎日、動物にしろ、植物にしろ、たくさんの生き物をたべて生きている。

おらの命は、おらに食べられてしまった命のおかげで、生きている。

また、そうして食べられてしまった命もまた、それ以前になんらかの命の関係でもって、そこまで生きていた。

食物連鎖としての関係がなければ、ただの一瞬だって、生きていけない。

また、人間関係の連鎖にしても、そうなのだ。

おらの両親の関係がなければ、おらは生まれていないし、そのまた両親の両親の関係、もっと前の関係からして、つながっている。

また、この先もつながっていく。

おらが、たとえ、誰かと結婚できないまま、死ぬことになったとしても、「関係は生まれて」いる。

おらの、この文章を読んだ人の脳には、何らかの「意識の変化」があるかもしれない。

たった、それだけのために、おらは生きているということだって、言えなくはないのだ。

宇宙の全てを俯瞰してみたら、プラスマイナス0でしかない、のが真理(客観的事実)。

しかし、それでも人が生まれて、生き続けたのち、死ぬのは、それは「縁起のため」で、これが主観的事実であり幸福である。

客観的にみて、感情をコントロールするために、般若心経をとなえ。

また、主観的にみて、誰かと関係をもつために、日々「縁起に感謝しながら生きる」のが、幸福なのだ。

よし、うまく、宗教チックなオチがついた!

2

さいきん般若心経がおもしろい

おっす!オラ三蔵法師の弟子の孫悟空!ありがたいお経をもらうために西の方へ旅しているよ!

ってことで、「ありがたいお経」について書いてみるよ。

さて、急なロールプレイングではじまったブログだけど、今回は「般若心経」の話。
オラが最近おもしろいと思っている「お経」だ。

ところで「般若心経」って文字は読めるかしら?

「はんにゃしんきょう」って読む人もいるみたいだけど、
ここでは『はんにゃしんぎょう』 と読むよ。

で、この「般若心経」についての本をいろいろと読んだりしている。

それまで、おれが「般若心経」にもっていたイメージは二つ。

  1.  「はんにゃーはーらー」とか「しきそくぜくー くうそくぜしきー」みたいな言葉が入っている、お経であること。
  2. 西遊記の話のもとになった、玄奘三蔵が、持ち帰ったお経であること。

でも、このお経の意味(どういうことが語られているお経なのか)については、さっぱり、よく分かってなかった。

そもそも「宗教はあやしい」っていうイメージが先行していたので、般若心経を学ぼうなんて思わなかったんだよね。

最初のきっかけは、2006年にNHKで『生きて死ぬ智慧』柳澤桂子を紹介していたこと。
すぐに買って、読んで、面白かった記憶があるけど、そこでとまっていた。

最近また同じ本を読み返したり、他の人が書いた般若心経にまつわる本を読んだりした。

また、これらの本の間に読んだ手塚治虫の『ブッダ』も、読んでおいて良かったと思う。

ブッダの本当の教えは、いまの仏教=宗教とはちょっと違って、どちらかというとある種の哲学に近いと、オラは感じた。

そもそも、般若心経も、ブッダが言った言葉そのものではない。
ブッダが生きていた時代と、般若心経が成立したとされる時代(600年ごろ?)には、およそ1200年も差があるわけだし。

でもでも、般若心経には、玄奘三蔵が命をかけて(まさに命がけで旅をしてきた)持ち帰った仏教の心髄というか、凝縮されたエッセンスが、ここにはある。

そうして、それは、「死者へのことば」ではなく「生きていくものへ真理のことば」だと感じた。

ちょっと矛盾する言い方だけど、オラはいまの仏教は、基本的には好きにはなれない。
「あの世」を意識する宗教は、仏教に限らず、キリスト教についても信じる気にはなれない。
それがオラの宗教観だ。

でも、般若心経(=ブッダの本当の教え)には、「あの世とこの世」なんていう概念はない。
それよりも、般若心経でのべられている「真理」は、哲学をも含みつつ、宇宙観をのべているようで、とても面白い。

宗教観というより宇宙観という見方で、オラは般若心経をとらえている。

おもしろい。

書かれている内容もおもしろいのだけど、般若心経を詠むときの「おとのならび」というか、お経の「歌い方」も、とても耳に気持ちよい。

これって「真言」だからなのかもしれない。

最後に引用しておこう。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意

無色声香味触法

無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪

是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦

真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

般若心経

お経と催眠のリミックスがほしい

おっす!オラ煩悩のかたまり!煩悩の数は108どころじゃないよ!
さて、突然だけどお経の声で、安らかな眠りについて考えてみた。

※八王子にある了法寺の「モバイルお経」

さっき、『雑学王』ってテレビ番組できいた話なんだけど…
お寺で使う「木魚」が、魚をかたどってるのって、昔は魚が寝ないと考えられていたからなんだって。
その魚にあやかって、お経の最中に寝なくならないように、「木魚」を叩くらしいよ。

どんだけ眠くなるのよ!って思ったw

でも、これって、逆に考えたら、お経をきくと誰でも眠くなるってことだよね。
修行中のお坊さん達でさえ眠くなるんだから。

思い出してみると、いなかで、お経をあげてもらったときに、オラもものすごく眠くて眠くて仕方なかったことあるなぁ…。
あらがいようのない眠さというか。
高校の時の英語のグラマーの先生の授業を聞いてるときの眠さというか。

あれって、お経を聞いてる人に眠気をさそう「歌い方」なんだと思うの。
本当にお経が上手なお坊さんの「歌い方」ほど、 リラックスできて眠くなるんだよね。

そうしたお経を、寝る前に聞いたら、よく眠れる気がする。
ヒーリングミュージックというか、催眠音声(催眠音楽)というか。
これ、売ってたら、結構聞いてみたいなぁ。

画像を引用した了法寺のように萌えにシフトしたお経じゃなくて、より本格的にお経がうまいお坊さんに収録してもらいたいかも。

あ、初音ミクが歌っている「般若心経」も、意外と心地よいんだよね。
お坊さんの「歌い方」だけじゃなくて、お経そのものに含まれている、言霊の並び方が、人を安らかな気持ちにしてくれるのかな。

やすらかすぎて、眠りをさそうのを通り越して、煩悩が払われるどころか、成仏しちゃうくらいに…。

むにゃむにゃ。
なむなむ。

おやすみなさい。

BGM: Center for Educational Development – ♪English Cafe #333