ACアダプタの見分け方

おっす!おら鳥頭!

記憶に関する脳みそは、空き容量がほぼゼロだよ!

そのため、ACアダプタが2つ挿してあるだけで、どちらがどの製品なのかさっぱり分からない。

それを解消する方法を考えてみた。

◆やりたかったこと:ルータの再起動(のためにACアダプタを見分ける)

ルータのアクセス状況が悪かったので、ルータを電源から再起動したかった。

しかし、コンセントがタコ足になっていて、似たようなACアダプタがあって、どっちがどっちか一目では分からなかった。

◆解決策:☆を付けた(目星)

ルータに目星をつけるため、「☆」のシールを貼り付けた。

そこから、ルータの電源コードをたどっていって、ACアダプタにも「☆」シールを貼り付けた。

一回だけは、電源コードをたどっていって、どれがルータのACアダプタなのかは、見極め無くてはならない。

でも、これで次から、ルータのACアダプタは一目でどれか分かるのだ。

(∩´∀`)∩ワーイ

もし、「☆」シールがなかったら、インデックスのシールでもなんでもいいのよ。

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何の罪もない***という言い方がキライ

おっす!おら罪人!

いや、野球賭博も、野球に関わりながら薬物依存とか、法的に捕まるようなことは一切してないけども!

政治のお偉いさん方の中には「結婚して、子どもを育てないのは罪だ」みたいな言い方するときあるから、そういうククリでは、独身のおらは罪人!

まあ、それはおいておいて、本題は「何の罪もない***」という言い方について、書いてみるよ。

ニュースなどでこの「何の罪もない***」という言い方がされるときに、おらは、違和感を覚えてしまう。

たいていは、事件や事故や、あるいは戦争や、大きな天災・人災などの被害者が、子どもだった時に、この「何の罪もない***ちゃんが、なぜ死ななければならないのか」みたいな常套句に使われている。

この「何の罪もない***」という言葉は、いったい、どういう意味なんだろう。

「罪のない人が死んだから」悲しい。というのであれば、たとえば罪を犯して「服役している人たち」が戦争や火災や地震などで死んでも、悲しむ必要はないのか。

もしくは「幼い子どもが死んだから」悲しい。というのであれば、たとえば老人ホームで事件が起こって殺されたとしても、「老い先短い老人たち」だから、死んでも悲しくはないのか。

いやいや、それはあまりにも極論だよ、といわれるかもしれない。

だがしかし、この「何の罪もない***」という言い方は、そうした気持ち=「罪があったらコロされてもおk?」とか「幼くなかったら死んでもおk?」というモヤモヤを、おらに起こさせるワードだ。

そもそも、「何の罪もない」って、どういう意味で、罪がないのか。

法律的な罪を犯していない、という意味だろうか。

もし、そうならば、たいていの多くの、服役したことのない人たちは「何の罪もない***」の人たちだろうけど、そうした人が死んだ時に、この言葉を使うだろうか。

それに、法律を破らなかれば、「罪はない」と言い切れるのだろうか。

めったやたらに、蟻をプチプチつぶす子どもだったらどうか。

昆虫採集に夢中になってる子どもは、セーフだろうか。

カエルの尻に爆竹をつめて、パン!ってやって飛び散るさまを楽しんでいるガキは、この「何の罪もない***」には含まれないのだろうか。

というか「何の罪もない」なんて人が、この世にいるのかね、いやいない、というのが、おらの立場なのだけど。

肉も、魚も、野菜すら、食べ物を食べるという行為は、それはすなわち「命をうばって、自分の命をつなげる行為」なわけだけど、それは「罪」とはカウントしなくていいんだろうか。

ベジタリアンからしたら、そうしたものも「罪」と言っちゃうのではないだろうか。

おらがまだ子どもだった時に、閻魔様が出てくるアニメ(マンガ)に、「蟻を殺した罪」みたいなので裁かれているのをみて、自分も地獄行きになっちゃう!と思ったことある。

公園で草の下に蟻がいたとして、うっかりおらが踏み潰した時に、もしも蟻の立場だったら「何の罪もない、わたしの仲間たちが人間に踏み潰された!コロされた!いつか人間を駆逐してやる!」となるかもしれない。

だから「何の罪もない***」って、地球上の人類に、いるのかよ?って思ってしまう。

また、いると思っているのは、エゴなのでは、とも思ってしまう。

「何の罪もない、幼い、***の命を返せ!」という気持ちは、察することはできるけど、その言葉には、同意できないっていうか、上に書いたような疑問が湧いてしまう。

「わたしの大切な、***の命を返せ!」なら、とても分かるし、反論する隙は無い。

この言葉に、そんな印象を持っていた人がいるのかしら?

おらだけがひねくれたモノの見方なのかしら?

この「何の罪もない***」というワードを用いるときには、(わたしに同意して!賛同するでしょ!)という気持ちがあって使っていると思うけど、少なくともおらの中には、いつも「うーん…」と同意するのをためらってしまうワードなのだ。

無意識の腕組みを意識する

おっす!おら会社勤め。

最近、中間管理職の予備軍みたいな立場になりつつあるよ。

そんななか、Aさんが退職するに当たり、若手Bくんに引き継ぎを行っているのを目撃している。

そこで、 Bくんの癖(クセ)に注目しているよ。

★腕組みの印象

結論からのべると、Bくんは、すぐに「腕組み」をする。

その「腕組み」こそが、印象を下げるしぐさなのだけど、それが分かっていないんだろうな。

だから、まわりの人から、Bくんに対する印象が、じわじわと下がってしまう。

以前におらはこんな記事を書いた。

ナニをもとに好きになるのか?っていう話 | 774no874印象アップ作戦

そこでも引用した「所さんの目がテン!」の『印象を左右するしぐさ』の表をみてほしい。

印象をダウンするしぐさに、しっかりと「腕組み」が入っている。

これは、相手を拒否している、もしくは、相手の言動を「自分のなかに入れさせない」という心の現れが、体から出てきている、のだ。

それを、すぐにしてしまうBくん。

Bくんの「拒否する心」が「腕組みというしぐさ」となって出てきているのが、ありありとわかる。

実は、Bくんは、会社の研修で「コミュニケーション研修」を受けている。

そこで、腕組みのマイナス効果の話も、聴いているハズなんだが…。

きっと、あまり、身につかなかったのだろう。

おらも、無意識に腕組みをしてしまうこともあるけど、その時に「意識的に、なぜいま腕組みしたのか?」を見つめなおす。

だから、会社の中では、腕組みを極力しないように「意識」している。

一方で、このBくんの腕組みを「やめさせる」必要があるのかどうかが分からない。

その人の行動を、他人であるおらがコントロールしようとするのは、よくないことだと思ってしまう。

自分で気づいて、自分でコントロールしないといけないのだ。

って、うちの上司も、実はよく「腕組み」するんだよねぇ…。

 

自転車の「相棒感」の喪失と復活

おっす!おらチャリンカー。

自転車でウロウロするのは好きだよ。

ちょっと、自転車であれこれあったのでφ(.. )メモっておきたい。

2015-07-20 13.43.00

土曜日は、母親の誕生日だったのね。

おらんちから、実家まで、自転車で30分くらいの距離なので、お誕生日祝いに行くことにした。

リュックサックに、よく冷えたワインをいれて、家を出発したところで、雨が降りだした。

おいおい、やめろよ、と思いつつも、行かないわけにはいかないので、雨に濡れながら出発。

ほら、先日、道路交通法が改正されたから、傘をさしながらの自転車は、すぐに怒られるからさ。

雨に濡れながら、そのまま、自転車を飛ばしていく。


おらんちから、実家までの、半分くらいにさしかかろうと言う時に、自転車の後輪が、ブシュッとなった。

パンクだ。

あーあー!

おらのチャリは、2013年8月に、アサヒサイクル自転車で買ったものだ。

サイクルメイトになって、毎月、定期的にメンテをしてもらっている。

先月、店員さんから「うしろのタイヤが相当磨り減ってるので、パンクのキケンがありますね」とは言われていた。

そのときは「パンクしたら直します」って答えていたのだけど、まさか、このタイミングでねぇ…。

その自転車屋さんは、300mくらい過ぎ去った場所にある。

この時のパンクした自転車の、まあ、頼りなさったら、ないよな。

自転車に乗っている時に「相棒感」は、本当に頼もしい。

でも、パンクした瞬間から「足手まとい感」が、尋常じゃないw

自転車『お、おれは、もうダメだ…。すまないが、このまま引きずって連れて行ってくれ』てな感じだ。

自転車は『置いていってくれ』とは言わないからな。

そして、パンクした瞬間から、ズルッズルと引きずる感じの「足手まとい」になるものな。

ここで、頭に巡ったあるお言葉。

以前書きましたが、結婚式で「健やかなる時も病める時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しい時も、 汝これを愛しますか」と聞くのは、「病気、感情が大きく揺れる、経済状態が変わった時、人間は別人になるよ。気をつけてね」と言ってるんですよね。かなりリアルな警句なのですな。” https://twitter.com/tarareba722/status/554287429692035072

ケッコンについてもそうだけど、これ、自転車についての気持ちも、当てはまるわ!って思った。


雨に濡れながらも、なんとか、かんとか、自転車屋さんに引きずって行き、パンクの修理をお願いすると、20分くらいで、4,500円くらいするという。

誕生日会に出席するので、急いでいたため、とりあえず、自転車をあずけて代車を貸してもらった。

雨が降っていたからか、貸していただいた代車がしょぼくてびっくりしたw

おらのは一応ギア付きで、いままでも、代車を何度か借りたけど、その度にギア付きの自転車を貸してくれた。

けど、この時は、ギアなしで、ところどころ錆びてる、古めかしい自転車だった。

雨だから、しょぼいのを貸してくれたのかしらね?

まあ、無いよりはマシだけど。


そこで、頭のそろばんを弾くと「後輪のパンクを修理すると4,500円くらい+前輪だったら4,300円くらい+サイクルメイト3,000円」あれ?これ、普通に新しいママチャリ買えるんじゃね?

まあ、「相棒」だからな。

うん、「相棒」だから、すぐには手放さないけども、なんとも、自転車のメンテ費からすると、新しい自転車買えちゃう感じがなぁ…。


無事に誕生日会にも参加して、いまさっき、直った自転車を引き取りに行ってきたよ。

おらは、サイクルメイトに入っているので、費用は10%オフになるから、4,000円くらいになったけど。

やっぱり、今の時代、直して使うより、買い直したほうが安いっていうのがあるんだな。

まあ、これからも、よろしく頼むよ、相棒チャリよ。

残業を当たり前にする職場に違和感

おっす!

おらノー残業デー大好きっこ。

いまの職場(フロア)にきて、10ヶ月あまり経つのだけど、どうにもこうにも、残業が慣れないのよね。

それまでのフロアでは、基本的に、オールウェイズ、ノー残業デーだったから。

しかし、いまは違う。

基本的に、残業デーだ。

残業を当たり前にするって、おらとしては「おかしい」と思っている。

または、残業しないとこなせないほどの仕事量が、割り当てられているのは、やっぱりおかしい。

それに対して、本来は、仕事の進捗を管理する上司が「この仕事のススメ方はおかしい」とか「一人あたりの仕事量が適切ではない」と判断するべきなのに。

そうはならない。

おらが、この職場(フロア)にやってきたときにくらべて、明らかに仕事の量が増えている。

しかし、給料は増えず、どんどん、モチベーションが下がってしまう。

残業は、二つに一つだ。

  • A:残業しないとこなせないほどの大量の仕事を、社員に割り振っている。=会社が無能
  • B:仕事量はたいしたことないのに、仕事のやり方が悪くて残業している。=本人が無能

残業している人がまわりにいるのをみたら、会社が無能か、残業している本人が無能かのどっちかだと思って間違いない。

よく、「成果主義」を持ちだして、残業を当たり前にさせている会社があるけど、それは、会社が無能。

効率よく働くことで「成果を上げる」ことを許さずに、過大なノルマを課していて、残業させることを強いるのは、一体どこが「成果主義」なんだ?

いまの「残業が当たり前」の環境は、どうにかして、打破していかなくてはならない。

般若心経で述べられていないことを補完するテスト

おっす!おら般若心経すきっこ。

一つ前のエントリーに続けて、また宗教の話について。

長崎ランタンフェスティバル

とつぜんだけど、おらは西遊記が好き。

この写真は、長崎ランタンフェスティバルの準備の模様を撮影した一枚。

かっちょいい西遊記の一行がうつっている。

まだ会場は準備中だったため、コレ以上近づいて撮影できなかったし、実際にランタンとしての灯りがついたところを見られなかったのは残念。

ところで、西遊記は、天竺までありがたいお経をもらいにいくフィクションだ。

しかし、この話には元ネタがある。

実在の三蔵法師が、いまでいうと、中国からインドまでの道のりを旅して、インドで仏教の勉強をして、中国に戻ってきたっていう話が、西遊記の下地になっている。

そうして持ち帰った「ありがたいお経」のうちの一つが、「般若心経」である。

◆般若心経に何が書かれているか

般若心経を解説している本を読んでみると、人が苦しむのは、「自分」という存在がいるからだ、という。

自分を捨てることで、苦しみから開放される。それが悟りを開くということ、だと。

なるほど、わかったような、わからないような。

また、綺麗とか汚いとか、生きるとか、死ぬとかは、宇宙のレベルでみたら「何も足したり増えたりしていない」のと変わらない、と。

これも、また、なるほど、わかったような、わからないような。

そして、一つの疑問がわく。

自分という存在が苦しみを生むのなら、では、なぜ自分は生まれてきたのかな?

般若心経では、ここは答えてくれていない。

◆生まれてくる理由・生きていく理由

般若心経で述べられる真理は、主観をすてて「宇宙レベル・素粒子レベルで捉えれば、辛くなくなりますよ」というおしえだ。

では、そうした心になったとして、宇宙レベルでみたら、人が生きるとか、死ぬとか、些細なことに過ぎないという主観が身についたとして、ではなぜ生きていくのですか?

生きても死んでも、悲しむ必要がないなら、生き続ける理由はないんじゃない?

いよいよ、宗教の話っぽくなってきました(自分で言う)。

般若心経で述べられているのは「悟りをみにつけ心穏やかに生きよう」というスローガン。

しかし、般若心経だけでは、仏教の教えとしては、まだ足りない。

自転車の二つの歯車の一つが、般若心経でのべられる「主観をすてて心をなくそう」であり、真理だ。

そして、もう一つの車輪は「縁起」の話がある。

これは般若心経では、述べられていない。

ここから下は、おらの「人生観の一つ」を書いておきます。

宗教的な真理ではなく、個人的な主観からでた「縁起」の話です。

◆おらが生きている理由

宇宙レベルでいえば、おらが生きていても、死んでいても、なんら変わらない。

変わらないのであれば、いますぐに死んでもよさそうだし、生まれてこなくてもよかったのっではないか、と思ってしまう。

が、しかし、そうではない。

おらは「関係をもつため」に生まれてきて、いまも生きているのだと、確信している。

違う言葉でいうなら「自分以外のものに影響をあたえ」また「自分以外のものから影響を受ける」ために、生まれてきて、そして生き続けるのだ。

おらは毎日、動物にしろ、植物にしろ、たくさんの生き物をたべて生きている。

おらの命は、おらに食べられてしまった命のおかげで、生きている。

また、そうして食べられてしまった命もまた、それ以前になんらかの命の関係でもって、そこまで生きていた。

食物連鎖としての関係がなければ、ただの一瞬だって、生きていけない。

また、人間関係の連鎖にしても、そうなのだ。

おらの両親の関係がなければ、おらは生まれていないし、そのまた両親の両親の関係、もっと前の関係からして、つながっている。

また、この先もつながっていく。

おらが、たとえ、誰かと結婚できないまま、死ぬことになったとしても、「関係は生まれて」いる。

おらの、この文章を読んだ人の脳には、何らかの「意識の変化」があるかもしれない。

たった、それだけのために、おらは生きているということだって、言えなくはないのだ。

宇宙の全てを俯瞰してみたら、プラスマイナス0でしかない、のが真理(客観的事実)。

しかし、それでも人が生まれて、生き続けたのち、死ぬのは、それは「縁起のため」で、これが主観的事実であり幸福である。

客観的にみて、感情をコントロールするために、般若心経をとなえ。

また、主観的にみて、誰かと関係をもつために、日々「縁起に感謝しながら生きる」のが、幸福なのだ。

よし、うまく、宗教チックなオチがついた!

宗教が伝えたい真理は「生きろ」と「眼鏡」

おっす!おら般若心経すきっこ!

といっても、仏教徒として、清く生きているわけじゃないんだけどね。

エロ大好きだし、お酒もすきだ!博打はやらない。

なんやかんやあって、宗教について、考えたので、いまのスタンスで書いてみる(重いテーマか?)。

Sagrada_Familia_02

先日、長崎美術館で『特別展 建築家・ガウディ×漫画家・井上雄彦 -シンクロする創造の源泉』をみてきた。

とても、とてもおもしろかった。

ガウディは、この写真「サグラダ・ファミリア大聖堂」の建築家として有名だ(31歳から、この建築に携わっていたとは!)

「サグラダ・ファミリア」はあまりに巨大な建造物なので、建築が100年以上たっても、いまだに完成していないの。

まだ完成していないのに、すでに修復作業もはじまっている。

あまりに、建築の年数が経っているので、新築現場と、補修現場が同居しているという建物なんだそうな。

美術館の解説によると「生と死がせめぎあっている姿のような建造物だ」という言葉が印象的だった。

大聖堂というくらいだから、キリスト教の教会なのだけど、世界にはキリスト教以外にも、たくさんの種類の「宗教」がある。

おらは「宗教」は、人に望まれて、生み出された「発明」だと思っている。

神様が世界を作ったのではなくて。

辛い現実世界を生きるために、人が神様を「発明」したと思っている。

そう、この世で生きていくのは「辛い」のだ。

あまりに、辛すぎるのだよ。

「生老病死」から逃れられる人間は、誰もいない。

「生まれちゃった」ことから始まる、4つの大きな苦しみは、死ぬまでエンドレスに続く。

そうした「辛い人生」の人は考える。

ともすれば、「なんで、こんなに苦しいんだよおおおおおお!!!!!!はやくゴールしたい=死にたい」と考える。

そこに、歯止めをかける「発明」が「宗教」だと、おらは思う。

みんなすぐに「死にたく」なったら、この世で生きていく人がいなくなる。

死にたくなるほどの辛い現実を、どうやって受け止めたらいいですか?という悩み・質問に答えるすべが、宗教だ。

宗教の真理は「生きろ」につきると思う。

辛い、辛い、辛い、という人たちに対して、なんとかして「生きろ」というメッセージを伝えるために、宗教はある。

もし、「生きろ」ではなく「しね」という宗旨がある宗教があったら、それは、おらの考える「本来の宗教」とは別の何かだ。

まがい物だ(断言)。

「生きろ」が宗教の本質である。

そして「どうやって生きるべきか」について、様々な解釈があり、その解釈の分だけ宗教が存在する。

日本人は、無宗派が多いので、「宗教=あやしいもの」と考えてしまうけど。

「辛い現実」だと感じる世界を、「辛くない世界」に変えるのは、物理的な面と、精神的な面を変えていくことが必要だ。

捉え方を変えると、見える世界が変わる。

その捉え方に強制的な補正を加えるのが「宗教」だと思っている。

目が悪い人に、眼鏡をかけるようなものかな。

ただし、自分にあっていないという宗教は、すぐに身を引くべきだ。

度数があってない眼鏡は、余計に身体に悪い。

また、裸眼でも、ものがよく見える人には、眼鏡が必要ないのと同じように。

宗教が必要なくても、生きていくこともできる。

ただ、宗教の面白いところは、「人生の捉え方について」何千年もかかって到達した「考え方の一つ」なので、とても「参考になる」のは間違いない。

自分でいまから、何千年も「生きていくってなんじゃろな・辛いな」と悩んで考え続けるよりも、もうすでにそうして悩んで悩んで悩みぬいてきた人たちが作ってきた「宗教=世の中を見るときにかける眼鏡」は、参考になるのだよ。

まあ、おらとしては、そうした「宗教」は、あってもなくてもあまり不便は感じない、平和なところで生きているのだけど。

この先、戦争が起こるとなると(もうすでに戦中かもしれないが)、話は変わってくるかも知れないけども。