般若心経で述べられていないことを補完するテスト


おっす!おら般若心経すきっこ。

一つ前のエントリーに続けて、また宗教の話について。

長崎ランタンフェスティバル

とつぜんだけど、おらは西遊記が好き。

この写真は、長崎ランタンフェスティバルの準備の模様を撮影した一枚。

かっちょいい西遊記の一行がうつっている。

まだ会場は準備中だったため、コレ以上近づいて撮影できなかったし、実際にランタンとしての灯りがついたところを見られなかったのは残念。

ところで、西遊記は、天竺までありがたいお経をもらいにいくフィクションだ。

しかし、この話には元ネタがある。

実在の三蔵法師が、いまでいうと、中国からインドまでの道のりを旅して、インドで仏教の勉強をして、中国に戻ってきたっていう話が、西遊記の下地になっている。

そうして持ち帰った「ありがたいお経」のうちの一つが、「般若心経」である。

◆般若心経に何が書かれているか

般若心経を解説している本を読んでみると、人が苦しむのは、「自分」という存在がいるからだ、という。

自分を捨てることで、苦しみから開放される。それが悟りを開くということ、だと。

なるほど、わかったような、わからないような。

また、綺麗とか汚いとか、生きるとか、死ぬとかは、宇宙のレベルでみたら「何も足したり増えたりしていない」のと変わらない、と。

これも、また、なるほど、わかったような、わからないような。

そして、一つの疑問がわく。

自分という存在が苦しみを生むのなら、では、なぜ自分は生まれてきたのかな?

般若心経では、ここは答えてくれていない。

◆生まれてくる理由・生きていく理由

般若心経で述べられる真理は、主観をすてて「宇宙レベル・素粒子レベルで捉えれば、辛くなくなりますよ」というおしえだ。

では、そうした心になったとして、宇宙レベルでみたら、人が生きるとか、死ぬとか、些細なことに過ぎないという主観が身についたとして、ではなぜ生きていくのですか?

生きても死んでも、悲しむ必要がないなら、生き続ける理由はないんじゃない?

いよいよ、宗教の話っぽくなってきました(自分で言う)。

般若心経で述べられているのは「悟りをみにつけ心穏やかに生きよう」というスローガン。

しかし、般若心経だけでは、仏教の教えとしては、まだ足りない。

自転車の二つの歯車の一つが、般若心経でのべられる「主観をすてて心をなくそう」であり、真理だ。

そして、もう一つの車輪は「縁起」の話がある。

これは般若心経では、述べられていない。

ここから下は、おらの「人生観の一つ」を書いておきます。

宗教的な真理ではなく、個人的な主観からでた「縁起」の話です。

◆おらが生きている理由

宇宙レベルでいえば、おらが生きていても、死んでいても、なんら変わらない。

変わらないのであれば、いますぐに死んでもよさそうだし、生まれてこなくてもよかったのっではないか、と思ってしまう。

が、しかし、そうではない。

おらは「関係をもつため」に生まれてきて、いまも生きているのだと、確信している。

違う言葉でいうなら「自分以外のものに影響をあたえ」また「自分以外のものから影響を受ける」ために、生まれてきて、そして生き続けるのだ。

おらは毎日、動物にしろ、植物にしろ、たくさんの生き物をたべて生きている。

おらの命は、おらに食べられてしまった命のおかげで、生きている。

また、そうして食べられてしまった命もまた、それ以前になんらかの命の関係でもって、そこまで生きていた。

食物連鎖としての関係がなければ、ただの一瞬だって、生きていけない。

また、人間関係の連鎖にしても、そうなのだ。

おらの両親の関係がなければ、おらは生まれていないし、そのまた両親の両親の関係、もっと前の関係からして、つながっている。

また、この先もつながっていく。

おらが、たとえ、誰かと結婚できないまま、死ぬことになったとしても、「関係は生まれて」いる。

おらの、この文章を読んだ人の脳には、何らかの「意識の変化」があるかもしれない。

たった、それだけのために、おらは生きているということだって、言えなくはないのだ。

宇宙の全てを俯瞰してみたら、プラスマイナス0でしかない、のが真理(客観的事実)。

しかし、それでも人が生まれて、生き続けたのち、死ぬのは、それは「縁起のため」で、これが主観的事実であり幸福である。

客観的にみて、感情をコントロールするために、般若心経をとなえ。

また、主観的にみて、誰かと関係をもつために、日々「縁起に感謝しながら生きる」のが、幸福なのだ。

よし、うまく、宗教チックなオチがついた!

広告