宗教が伝えたい真理は「生きろ」と「眼鏡」


おっす!おら般若心経すきっこ!

といっても、仏教徒として、清く生きているわけじゃないんだけどね。

エロ大好きだし、お酒もすきだ!博打はやらない。

なんやかんやあって、宗教について、考えたので、いまのスタンスで書いてみる(重いテーマか?)。

Sagrada_Familia_02

先日、長崎美術館で『特別展 建築家・ガウディ×漫画家・井上雄彦 -シンクロする創造の源泉』をみてきた。

とても、とてもおもしろかった。

ガウディは、この写真「サグラダ・ファミリア大聖堂」の建築家として有名だ(31歳から、この建築に携わっていたとは!)

「サグラダ・ファミリア」はあまりに巨大な建造物なので、建築が100年以上たっても、いまだに完成していないの。

まだ完成していないのに、すでに修復作業もはじまっている。

あまりに、建築の年数が経っているので、新築現場と、補修現場が同居しているという建物なんだそうな。

美術館の解説によると「生と死がせめぎあっている姿のような建造物だ」という言葉が印象的だった。

大聖堂というくらいだから、キリスト教の教会なのだけど、世界にはキリスト教以外にも、たくさんの種類の「宗教」がある。

おらは「宗教」は、人に望まれて、生み出された「発明」だと思っている。

神様が世界を作ったのではなくて。

辛い現実世界を生きるために、人が神様を「発明」したと思っている。

そう、この世で生きていくのは「辛い」のだ。

あまりに、辛すぎるのだよ。

「生老病死」から逃れられる人間は、誰もいない。

「生まれちゃった」ことから始まる、4つの大きな苦しみは、死ぬまでエンドレスに続く。

そうした「辛い人生」の人は考える。

ともすれば、「なんで、こんなに苦しいんだよおおおおおお!!!!!!はやくゴールしたい=死にたい」と考える。

そこに、歯止めをかける「発明」が「宗教」だと、おらは思う。

みんなすぐに「死にたく」なったら、この世で生きていく人がいなくなる。

死にたくなるほどの辛い現実を、どうやって受け止めたらいいですか?という悩み・質問に答えるすべが、宗教だ。

宗教の真理は「生きろ」につきると思う。

辛い、辛い、辛い、という人たちに対して、なんとかして「生きろ」というメッセージを伝えるために、宗教はある。

もし、「生きろ」ではなく「しね」という宗旨がある宗教があったら、それは、おらの考える「本来の宗教」とは別の何かだ。

まがい物だ(断言)。

「生きろ」が宗教の本質である。

そして「どうやって生きるべきか」について、様々な解釈があり、その解釈の分だけ宗教が存在する。

日本人は、無宗派が多いので、「宗教=あやしいもの」と考えてしまうけど。

「辛い現実」だと感じる世界を、「辛くない世界」に変えるのは、物理的な面と、精神的な面を変えていくことが必要だ。

捉え方を変えると、見える世界が変わる。

その捉え方に強制的な補正を加えるのが「宗教」だと思っている。

目が悪い人に、眼鏡をかけるようなものかな。

ただし、自分にあっていないという宗教は、すぐに身を引くべきだ。

度数があってない眼鏡は、余計に身体に悪い。

また、裸眼でも、ものがよく見える人には、眼鏡が必要ないのと同じように。

宗教が必要なくても、生きていくこともできる。

ただ、宗教の面白いところは、「人生の捉え方について」何千年もかかって到達した「考え方の一つ」なので、とても「参考になる」のは間違いない。

自分でいまから、何千年も「生きていくってなんじゃろな・辛いな」と悩んで考え続けるよりも、もうすでにそうして悩んで悩んで悩みぬいてきた人たちが作ってきた「宗教=世の中を見るときにかける眼鏡」は、参考になるのだよ。

まあ、おらとしては、そうした「宗教」は、あってもなくてもあまり不便は感じない、平和なところで生きているのだけど。

この先、戦争が起こるとなると(もうすでに戦中かもしれないが)、話は変わってくるかも知れないけども。

広告